「死」へのイメージ
こんばんは、たまです。
インフルはずいぶん良くなりまして、自宅謹慎も今日で解けます。
こじらせなくて良かった…。予防接種&タミフルさまさまです。
さて、先日のブログではHIV感染告知の場面について書かせてもらいました。
これからは、告知からその後のことも少しずつ綴っていければと思います。
HIV感染が発覚して、毎日の生活で何が一番変わったかというと、
正直、劇的に変わったということはあまりありません。
もちろん、治療に必要な定期的な検査や毎日の服薬の負担、
HIV感染者として日々感じる精神的な負荷は少なからずありますが、
それまでの生活と大きく変わらない生活を送ることができています。
でも、考え方や世の中の見方はずいぶんと変わったなぁと思います。
特に、自分の生に対しても、他人の生に対しても、「生」に敏感になった気がします。
「生」の有限性、すなわち「死」という「生」の終着点へのイメージが、
自分にとってより具体的に目の前に現れるようになりました。
これは、自分にとって「死」が近いものになった、ということとは少し違います。
日々の「生」における「死」という存在を、彼岸の霧の中にあるものとしてではなく、
その霧が晴れて具体的な形で捉えることができるようになったということです。
僕の「生」は、毎日欠かさず服薬を行うことでつながっている。
そしてその薬は、社会の恩恵に与らなくては(経済的に)手にすることが難しい。
自分の命は自分一人の力だけでは支えきることができず、社会にも支えてもらうことで
続いているという思いが、「死」を目の前に顕然なものとさせたのかもしれません。
改めて、自分が「死」を迎えるということがどういう意味を持つか考えてみると、
「死」を迎えること自体への恐怖より、「死」がもたらすことへの恐怖の方が強い。
自分にとって大切な人たちに死別という大きな悲しみを与えてしまうこと。
命をつないでいく支えをしてくれた社会にお返しをする機会がなくなること。
一方で、「死」が顕然としたことがもたらしたポジティブな部分もあります。
今、「生」が続いていることに素直に感謝できるようになったこと。
既に「死」を迎えた人に今まで以上に心を寄せることができるようになったこと。
色々とありますが、「死」を単に漠然とした感情で恐れることがなくなったことで、
「死」とどう向き合うか、どう準備するか、について指針が持てるようになりました。
そしてそれは、日々の「生」への姿勢の変化にも少しずつ繋がってきています。
太宰治は(厳密には作中の「葉蔵」は)「死」を喜劇名詞に分類しました。
僕も、「死別」は悲劇名詞であると思う一方「死」は喜劇名詞ではないかと思います。
僕は宗教的なものには詳しくないし、特定の宗教に帰依することは考えていませんが、
「死」あってこその「生」とよく言われるように、「死」への認識は、「生」に対し
スポットライトを当て、「生」をより良い方向に導くものとなると捉えています。
(もちろんそこには「生きる意味」という大きな課題がかかわってきますが、
それについてはまた追ってこの場で書かせていただこうと思っています。)
そうであれば、HIVは、あながち「生」にとっての脅威となるばかりの存在として
自分と共存しているわけではないのではないか、と思ったりもするのです。
皆さんにとって、今日1日が素敵な1日になりますように。
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