知ること、見ること、想うこと ~3.11にそえて~
こんにちは、たまです。
皆さん今週も一週間お疲れさまでした。
土日もお仕事の方々、大変お疲れさまです。
来週末は3連休ということでお出かけ予定の方も多いと思いますが、
僕も相方とどこかに行こうかと計画を練っています。
昨日は3月11日。
僕は14時46分にはお仕事真っただなかだったので、
その少し後の時間に、亡くなった方へ心の中で静かにご冥福をお祈りしただけだったのですが、
相方はテレビで追悼式典の中継を見ていたようで、「宮城行きたいかも…」と言っていました。
僕は、震災直後に友人と石巻市に向けての募金活動に参加したことがきっかけで、
震災から半年後に初めて石巻を訪れ、震災の被害や復興の様子を見に行きました。
相方とは3年前のちょうど今頃、一緒に石巻を訪れましたが、
相方はその時のことがずいぶん印象に残ったようで、
直後かなり複雑な感情に襲われたようです。
僕はその後、去年のシルバーウィークにも、
ボランティアとか大したことをしたわけではないのですが、
そこで見た光景や抱いた感情はしっかりと心に刻まれています。
震災で亡くなった方やその遺族の方の苦痛はさることながら、
運良く生き延びることができた方々のなかでも、
今なお先の見えない辛い日々を送っている方が多くいらっしゃいます。
人によっては、これから先の生活のことを考える方が辛い
という方もいるかもしれません。
震災発生から年を追うごとに問題となるのは、
震災の記憶の風化とそれに伴う世間の無関心化です。
人々の記憶が風化し、世間が無関心になっていくと、同じ被害を招く可能性を生むだけでなく、
支援を必要とする人に必要な支援が行きわたらなくなることにもつながります。
しかしながら、直接震災を経験した人は格別、早かれ遅かれ、
記憶というものは自然と風化していってしまうことが避けられないものです。
そうした風化を少しでも遅らせ、少しでも記憶を心に刻んでおくために求められるのは、
まずは震災の事実とそれに巻き込まれた人々の現在を正しく「知ること」、
そして可能であればそうした事実や人々の現実を自分自身の目で「見ること」、
そうした行動がきっかけになって、震災に関わる事実・人々のことを「想うこと」、
こうしたことなのではないかと考えています。
なにも大きなお金を募金したり、ボランティアに参加することが支援のすべてではありません。
皆、それぞれのバックグラウンドがあり、それぞれの生活があります。
自身の生活を犠牲にしてまで行動を起こさなければいけないと義務感を抱くことは、
支援の趣旨に違背する可能性も孕みます。
一人ひとりが可能な範囲で、知ること・見ること・想うことを通じて、
辛く悲しくも確かに存在する事実に想いを寄せて、共感し、想像することが、
社会における草の根レベルでの継続的な、そして新たな動きにつながり、
明日の見えない生活を送る人たちの一人でも多くの笑顔につながっていくのではないかと思うのです。
皆さんにとって、今日1日が素敵な1日になりますように。
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